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「古今伝授之間(こきんでんじゅのま)」は、庭園の築山を湧水に満たされた池ごしに望む茅葺きの書院造りの御茶屋。時を経て、水前寺成趣園内に移築復元されたこの建物は、昔、京都御所にあった八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王の御学問所であった。後に桂宮(かつらのみや)家の初代となる智仁親王と、細川家の初代、細川藤孝(幽斎)(ふじたか・ゆうさい)公を結ぶ「古今伝授」は、関ヶ原の合戦のさなか、全国の大名にも知られることになった。 紀貫之(きのつらゆき)ら4人の選者による、日本初の勅撰和歌集「古今和歌集(905年)」には、日本人特有の感性が凝縮されている。平安時代、和歌を研究しその解釈の奥義を確立した藤原定家(ていか)以来、この奥義は「古今伝授」として代々その子孫に伝えられていた。 戦国時代、古今伝授を受け継いだ三条西実枝(さねき)は、伝授するには子息があまりに幼いため、自分の死後、古今伝授を託せる人物を探さなければならなかった。そして実枝は細川藤孝(幽斎)公を選んだ。足利家の血を引き、信長、秀吉、家康に仕えた武家でありながら、和歌に優れた当時最高の文化人であった。藤孝(幽斎)公は、実枝の死後、約束通りその子息、公国(きんくに)に古今伝授を行った。が、公国はやがて死去してしまう。古今伝授の後、分派していた古今伝授の集大成を図っていた藤孝(幽斎)公は、再び確かな人物に、古今伝授を行わねばならなくなった。公は、後陽成(ごようぜい)天皇の弟宮、智仁親王を選び、やがて伝授を始めた。 それが関ヶ原の合戦の年である。細川氏は徳川方につくと、すぐに藤孝(幽斎)公の当時の居城、京都・丹後の田辺城は、数十倍もの石田方の軍勢に包囲されてしまう。落城は時間の問題とみられた。藤孝(幽斎)公が命を落とせば、平安時代以来の正当な古今伝授そのものが途絶える。智仁親王は天皇に願い出られ、和議を調停し、田辺城を明け渡すよう使者をおくられたが、藤孝(幽斎)公は覚悟を決めているとして古今伝授の重要書類と和歌を使者にもたせて返す。和議の勧告は度重なり、籠城は60日に及んだ。戦が徳川方有利となるなか、三度目は天皇御自らの勅諚が発せられ、細川氏はやっと籠城を解き石田方も包囲を解いた。 この一件によって、古今伝授と細川藤孝(幽斎)公の名が公家や大名に知られるようになったといわれている。 ◆ 時を超えて、京都御所から水前寺成趣園内に建つ「古今伝授之間」は、かつて、智仁親王の御学問所で、「古今和歌集」の解釈の奥義を伝授した由緒ある建物である。智仁親王は桂宮家の初代で、後の「桂離宮(かつらりきゅう)」の建設時には、大いに参考にされたと伝えられている。 後に京都の長岡天満宮に移築されていたこの建物は、明治4年の廃藩置県の年に細川家に下賜された。細川家ではこれを解体して大阪の倉庫に保管する。現在の「古今伝授之間」が建つ場所には、かつて酔月亭という御茶屋があったが、明治10年の西南の役で焼失してしまう。その後、大正元年に細川家ゆかりの成趣園内に復元移築され、昭和39年には熊本県指定重要文化財となり、現在の我々にその歴史を伝えている。 |