熊本観光名所〜熊本城の歴史〜

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Information
熊本城
熊本城天守閣
熊本城総合事務所
tel.096-352-5900
入園8:30~17:30(4~10月)
  8:30~16:30(11~3月)
休園12月29日~31日
大人500円・中学生以下200円・幼児無料
武者返し
反り返るようなカーブを描く
武者返しの石垣
加藤清正
加藤清正 画像(肥後本妙寺 所蔵)
加藤清正 着用の烏帽子兜
加藤清正 着用の烏帽子兜
(肥後本妙寺 所蔵)
写経した紙をこより状にしてまとめ、それを漆で塗り固めて形成したもの
本妙寺宝物館
tel.096-354-1411
開館9:00~17:00
月曜休館(月曜が祝日の場合は翌日休館)
大人300円・高校大学生200円
中学生以下100円
浄池廟
「浄池廟(じょうちびょう)」
肥後本妙寺にある加藤清正の廟所
肥後本妙寺
「胸突き雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる、肥後本妙寺の急勾配の石段。石畳には熊本城の石垣と同じ刻印が施されている
加藤神社
加藤神社
季刊 旅ムック
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無断転載禁止
「季刊 旅ムック」発行元
エース出版
mail@tabimook.com

熊本城タイトル
名城築城まで
戦国時代の物語

 加藤清正が大規模な熊本城を築く以前のお城の場所は、茶臼山といわれ、四つ木(代継)神社が祀られていたという。清正入国以前の肥後は、薩摩の島津氏・豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏などによる領土の争奪戦が繰りひろげられた戦国の世であった。

飯田丸五階層
手前が飯田丸五階層、その向こうが天守閣

千葉城跡
千葉城跡
古城跡
古城跡
菊池氏の勢力の衰退と千葉城・古城

 15世紀後半の記録によると、現在のNHK熊本放送局のある丘に千葉城が築かれたという。城主は、出田山城守秀信(いでた・やましろのかみ・ひでのぶ)。出田氏は、肥後の守護職であった菊池重朝の代官であった。この出田氏の勢力が弱まると、菊池氏は有力豪族の鹿子木三河守親員(かのこぎ・みかわのかみ・ちかかず)を次の代官にすえた。鹿子木氏は任官すると城を千葉城ではなく古城に移す。ここは、薩摩街道・豊後街道・肥前街道などが交差する街道の起点に近い場所にある。これが隈本城または古城と呼ばれる城である。
 一方、鹿子木氏が古城(隈本城)に入城する頃、菊池氏は弱体化していく。当主の菊池重朝(きくち・しげとも)が亡くなると、肥後守護職である菊池家当主の座をめぐって叛乱が起こる。菊池武運(たけゆき)が次の当主の名のりをあげるが、優勢な家臣団は豊後国守護の大友義鑑(おおとも・よしあき)の弟(義武 よしたけ)に菊池姓を継がせ、義武を菊池家の当主の座につける。この動きに応じて鹿子木氏も大友氏の勢力に取り込まれることとなる。


大友氏の内紛

 やがて、大友義鑑(兄)と菊池義武(弟)の不和が争いに発展し、劣勢の菊池義武は古城を追われ肥前に亡命を余儀なくされる。人吉地方を治めていた相良(さがら)氏は、亡命中の義武に加勢して古城に攻め寄せ攻撃を加えたが、落とせず退却する。ところが優勢だった大友義鑑が家臣によって暗殺されてしまう事件が起こる。これを好機とみた菊池義武は古城に入城を果たすが、暗殺された義鑑の子、大友義鎮宗麟(よししげ・そうりん)が、謀反を起こした家臣の誅伐を成し遂げ、義武と鹿子木氏(親員の孫、鎮有)を古城から追う。ついに義武は自害、大友氏に協力した城親冬(じょう・ちかふゆ)が古城の新しい主となり、豊臣秀吉の九州平定により城を明け渡すまで城氏三代の統治が続いた。

佐々成政の肥後入国

 秀吉は、九州平定に従軍していた佐々成政に肥後の統治を任せるが、検地をめぐって国衆一揆が発生する。一揆軍は古城にも攻め寄せるが落とすことができず、多くの国人が自滅していった。佐々成政はこの一揆の責任を問われ秀吉から切腹させられる。その後は、肥後の国の北半分を加藤清正に、南半分を小西行長(こにし・ゆきなが)に与えられることになる。

清正の統治、朝鮮出兵、関ヶ原の合戦

 熊本城は日本三大名城のひとつに数えられているように、清正は築城の名人といわれたが、清正は入国すると、すぐに築城には取りかからず古城を居城として、まず、川の氾濫への対策に重点を置き、防衛力の強化と同時に米の生産力を高めた。しかし、清正には治国に集中する間もなく、秀吉の命により朝鮮への出兵を余儀なくされる。
 2度にわたる朝鮮出兵で清正は外国人と戦い、過酷な籠城戦も経験する。この朝鮮での体験をいかして、特に、日本にはない見事な石垣の技術を吸収し、籠城に備えた非常用の食糧備蓄や井戸の重要性を学んでいる。無理を重ねた朝鮮出兵は秀吉の死去により終わる。やがて、秀吉亡き後の天下の実権は、関ヶ原の戦いを経て徳川家康に移って行く。関ヶ原の合戦で清正は徳川方で参戦。石田三成方で戦った小西行長は捕らえられて処刑され、行長が領していた肥後半国を含めた肥後一国を清正は領することになる。

熊本城築城開始

 清正は、朝鮮出兵前から、熊本城の本丸石垣の工事などには着手していたようであるが、出兵中の工事は中断されていたと思われる。関ヶ原の合戦後の1601年から、清正は、茶臼山の丘陵地帯に大規模な築城を開始する。九州最大の熊本平野の南西に突き出た茶臼山丘陵地帯には、各地に自然の浸食による崖があり、周囲を白川・坪井川・井芹川がながれ、北・西・南の三方は湿地帯や沼地であったという。清正はこの攻め難く守りやすい地形に目をつけた。そのうえ、井戸を掘ると良質な水に恵まれた場所であることも好条件であった。清正は、侍屋敷の場所を定め、商人や職人の町を設計して、その地に移り住まわせた。1607年に大規模な城が完成すると、城名を「熊本城」にし、町の名前も「隈本」から「熊本」に改名する。
 このときの加藤清正の町割りが、城下町の面影を残す現在の熊本市中心地の原型である。天守閣近くには加藤神社が鎮座し今も崇敬を集めている。


清正公さんが造った名城

 多くの武勇伝が語り継がれる加藤清正は、地元では「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ、民衆の心に通じた領主であった。壮大な「熊本城」を築城し、熊本市中心地の都市設計をし、治山治水対策によって大規模な新田を造成して領民を豊かにした。

複合天守閣
加藤神社から望む熊本城の複合天守閣

肥後一国の領主となった加藤清正

 加藤清正は、1562年に尾張(現在の名古屋市中村区)に生まれ、幼い頃は虎之助と呼ばれた。生家は豊臣秀吉の生家に近く、清正の母と秀吉の母は従姉妹同士であったともいわれている。清正は9歳のとき秀吉の小姓にとりたてられ、秀吉のそばで侍に成長していく。初陣で手柄をたて、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは目覚ましい活躍を見せた7人として「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれ、3千石を与えられた。清正は秀吉の戦の度に従軍し、天正16年には肥後の北半分を治める大名となる。朝鮮半島へ2度にわたり兵を率い、関ヶ原の合戦では徳川家康に味方して九州で戦う。合戦に勝利すると、それまで小西行長が治めていた肥後の南半分も領することになり、加藤清正は肥後一国を治める領主となる。

壮大な要塞と城下町の設計

 豊臣秀吉の死により国内勢力の変化を予感した清正は、関ヶ原の合戦が終わると茶臼山丘陵地帯に大規模な築城を開始した。城郭の周囲は約9kmあり、大小の天守をもつ複合天守閣、長さ約240mもの長塀をはじめ、櫓49、櫓門29を数える堂々たる偉容を誇った。領民は、美しいカーブを描く武者返しの石垣に立つ黒く雄々しい城を誇らしく思ったことだろう。お城には、石落としや鉄砲孔などの様々な戦闘のための工夫はもちろん、籠城に備えて数多くの井戸が掘られ様々に食糧備蓄の工夫がなされていた。朝鮮出兵の際、水も食糧も尽きて寒さと飢えをしのいで戦い抜いた蔚山籠城の体験が活かされている。
 河川を城の防衛線と考える歴戦の清正は、坪井川・井芹川を合流させ自然の内堀とし白川を外堀とした。その白川には唯一、長六橋(ちょうろくばし)を架けたのみであったという。二の丸・三の丸など本丸に近い場所に侍屋敷を定め、新町・古町・京町などには商人や職人を住まわせ、敵の攻撃の際には戦闘の拠点として活用できるお寺を計画的に配置した。このときの都市設計が現在の熊本市中心地の原型をなしている。
 築城から270年を経た明治10年の西南の役では、熊本が戦場となり、勇猛さで当時最強とされていた薩摩の西郷軍が熊本城を取り囲み激しく攻めたが、近代兵器を使った攻撃にも耐え抜いて、熊本城は、ついに難攻不落の城を証明した。

本丸御殿の「昭君之間」の謎

 現在復元工事が進んでいる天守閣脇の本丸御殿の最も奥に「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる一室があり、そこに描かれていた、中国の故事――昭君胡に遣わされる――に因んだ絵が復元中である。この間に近づく廊下は歩くと軋んで音が出る鶯張り(うぐいすばり)になっており、さらに壁には脱出用の抜け穴まであったという。そこで家中では密かに、「昭君」とは「将軍」の隠語で、清正は豊臣家一大事の際は豊臣秀吉の嗣子(しし)、秀頼を迎える用意をしていたと言い伝えられた。徳川家とは姻戚の関係を結びながら、秀吉への忠義を忘れない清正の、戦国の世に生き抜く姿勢が垣間見えるようだ。
 徳川幕府を開いた家康は、子の秀忠に政権を譲る。徳川の天下が続くことを全国の大名に知らしめるためである。大御所と呼ばれるようになった家康は豊臣家を滅ぼす口実を探していた。やがて家康は京都御所に参内の折、秀頼に面会を申し入れる。家康の申し入れを拒否すれば、秀頼攻撃の口実を与えることになることを、清正はじめ豊臣秀吉恩顧の大名達は予見できていた。ところが秀頼の母、淀君は面会に反対の意向である。清正は浅野幸長とともに淀君の説得にあたり、ついに京都の二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現する。秀頼の身に万一のことがあれば清正は家康と差し違える覚悟であったといわれる。

清正の時代

 1611年、二条城の会見を終えて帰国の途についた清正は、船中で発病する。そしてそのまま回復をみることなく熊本城でその生涯を閉じる。享年50歳といわれ、病因・死因については不明である。
 賤ヶ岳の七本槍、天草での木山弾正との一騎打、朝鮮での虎退治ほか、数多くの武勇伝が残る豪壮武勇の将で、戦では連戦連勝。信義を重んじて多くの武将たちから信頼された。それに「南無妙法蓮華経」と書かれた旗さしものを使用するほど信心深い法華の信徒であった。朝鮮では捕虜にした二王子を厚遇し、両王子からは謝辞の文書が贈られている。
 領国経営では、森の伐採に制限を加え山の水資源を涵養し、堤防を築き治水工事を進めて水害対策や潅漑事業を推進して農業生産力を高めた。そして、領民からは情け深い領主としても高い人望を得た。熊本城築城にあたって清正は、農繁期を避け、農民と同じ物を食べ、土ぼこり舞う同じ作業場で日に焼けながら終日指揮をとり、仕事が終わると農民たちに酒と芋を振る舞ったといわれる。今日まで「清正公さん」と呼ばれるように、民衆の心に通じた領主であった。
 清正は正室を水野家(徳川家康の従姉妹)から迎え、生まれた娘を紀州徳川家の初代頼宣に嫁がせている。やがて清正のひ孫が8代将軍徳川吉宗となる。
 肥後の新領主には11歳の子、忠広がつき、21年後に領地を没収されるまで肥後を治める。加藤清正の亡骸は、かねての遺言により熊本城西方の清正が深く帰依した日真上人(にっしん・しょうにん)の草庵近くに葬られ、廟所が造営された。肥後本妙寺の「浄池廟(じょうちびょう)」は清正公さんのお墓である。この廟所はちょうど熊本城天守閣最上層と同じ高さにある。

(文/中村まさあき)
参考文献
宗教と現代(1983年9月号)/鎌倉新書、熊本城/学習研究社、肥後の清正/熊本出版文化会館
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